現代版言語起源論

心とことばの起源を探る (シリーズ 認知と文化 4)

心とことばの起源を探る (シリーズ 認知と文化 4)

人間と他の類人猿は、遺伝子の水準で見れば99%近い一致率を持っている。また、人間以外の霊長類であってもすでに「他の個体間の第三者的な社会関係、例えば第三者うしの間に成り立つ親族や支配関係などを理解する」(20)。これは、広い意味でのメタファーとメトニミーがすでに言語運営能力に先立って存することの証左であるように思われるのだが、ともかく、認知的能力において人間と他の霊長類が生物的遺伝によって持つ特性はほとんど同じである。にもかかわらず、人間だけが文字や貨幣、産業や芸術といった高度に固有な文化を創造することができた。なぜか?

トマセロの主張は、人間と他の霊長類との差異は、「他者を意図を持った主体として認識すること」ができる点にあるというものだ。これが人間固有の文化に結実する認知能力を生み出す要因となる。
さらに、他者を意図を持った主体として認識する能力は、生後九ヵ月の人間の赤ちゃんにおいて発揮される。この能力を持った赤ちゃんが、ある一定の期間に渡り、他の人間との相互的な社会的認知過程(硬い表現だが、たとえば指差しによる対象の相互承認など)に参与することで、対象、大人(他者)、自己を同時に含む共同注意場面の認識、他者の伝達意図の理解、他者との役割交替による視点の内在化を学習する。(したがって、他者の意図を理解する能力が往々にして欠如しているとされる自閉症者などは、こうした社会的認知能力を発揮しない)こうした人間に固有の認知能力が言語(ここで言われる言語もまた、文法や語彙というより、ラネカーの認知文法などのように、言語表現に含まれるパターン認識や、その認知的な運営能力に強調点が置かれる)の基盤となる。

人間と霊長類に共通の認知能力と、人間に固有の社会的過程とが相関的に関係することによってのみ、人間固有の言語およびその運営能力が生じるというのがトマセロの主張だ。すなわち、人間固有の認知能力(つまりは人間本性)の発生を考えるには、系統的要因と個体発生的要因を同時に考慮する必要がある。したがって、トマセロが言うように、無人島に一人生まれ育ったロビンソン的子供は、系統的要因を持つがゆえに、霊長類程度の外的諸関係に関する認知能力は発揮するだろうが、しかし、他者との相互的な社会的認知過程を欠くがゆえに、共同注意や他の視点の内在化(つまりは言語の獲得)は不可能となるだろう。「私〔トマセロ〕の推測によれば、現代の自然言語に似たものが進化するには何世代もかかり、文字や複雑な数学や政府その他の制度ができるには間違いなくさらに多くの世代が必要であろう。」(283)

こうした主張によってトマセロは、多くの認知科学や社会科学が採用している遺伝子還元論や言語の生得的モデル(チョムスキー)を否定し、進化論的な時間の問題*1と、それとは逆に、言語的能力の発現がなぜ幼児期初期から中期にかけてこれほど多くの時間がかかるのかという問題を同時に解消する*2

トマセロによるこの議論を経てもなお、言語の超越性や生得性を云々することはさほど意味がない。むしろ、トマセロが主張するように、最低限の遺伝的条件に加え、個体発生の水準における社会的環境要因を考慮しなければならないし、またそれが何代にも渡って継承され精緻化されていく歴史的な時間を勘案しなければならない。これが示すことは、個人と環境との間にはつねに相互的な作用があり、これによって人間の認知能力が進展するだけでなく、文化的環境もまたそれに伴って累進的に展開することが可能となるということだ。

「われわれの目標が人間の認知をその進化的、歴史的、個体発生的な次元で動的・進化論的に捉えることであるならば、先天的な素質か育つ環境か、生得的か学習によるものか、さらには遺伝子か環境か、などという古くからの疲弊した哲学的なカテゴリー対立では静的かつ断定的すぎてその目標達成には役立たないのである。」(290)

だからこそ、言語や制度、技術の発生と展開を論じるうえで、物理的な要因や身体部位の特定化を行うよりも、それがいかなる社会的なコンテキストにおいて(これを集団的アレンジメントと呼んでも良い)、どのような因子にしたがって、どのような個体を構成するのかを、自然史的時間と歴史的時間というスパンの異なる時間性の相関関係のなかで考察することが必要なのだ。


人間本性としての言語を考える上で、トマセロの議論はその実証性と論理性から言っても最上のものであると思う。しかしながら、それでもなお…、という印象も残る。
トマセロの主張の要は、人間と霊長類を区別する他者の意図を理解する能力と、それによる認知能力の発揮(習得)にある。トマセロの議論が巧妙なのは、この能力が、厳密に進化論的な意味において人間が何世代にもわたる適応と淘汰の結果身に付けたものであるので、その起源や発生を問うことはできない(というか意味がない)とすること、したがって、言語が人間固有の本性なのではなく、逆に人間の認知能力の表現型が言語であるとしているところだろう。

しかし、個体発生のレベルでみれば、この能力の発揮は、自己における意図と運動との間にある因果性の理解と、その外的対象への適用に基づいている(これはトマセロ自身も認めているように思われる)。ならば、これを単に内観の外的適用としてしまうのは、若干の飛躍があるのではないだろうか。むしろ、そうした自己における意図と運動の因果性をなぜ理解できるのか、なぜそれを外的対象へと適用することが可能となるのか、これを問わなければならないだろう。そもそも上記の意味で自己の内観を獲得するためには、すでに統一的に把握された自己の身体像と、意志と非意志を区別する認識が成立していなければならない。好意的にトマセロの文脈に落とすとすれば、これらを可能にしているのが文化的慣習と考えることもできるかもしれないが。

*1:「人間に特有の認知機能の場合には、…たった二五万年の間に出現したのであるから、こうした機能がこれだけ多く進化する時間が十分にあったとは言えない」(273)。

*2:「社会的認知と文化に対する基本的な人間の適応性を実際の社会的なやりとりの中で数年間にわたって行使する必要があるからである」(265)。