心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける (ちくま学芸文庫)

心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける (ちくま学芸文庫)

メルロ=ポンティが1947年から1948年にかけてエコールノルマルにて行った講義録である。あとがきによると、これは、1945年出版の『知覚の現象学』と、1949年(パリ大学)における発達心理学的な議論の中間に位置する講義である。主題は心身問題なのだが、思惟と延長という二つの実体からなるデカルトマールブランシュにおける叡知的延長とは異なる形で心身問題を考えるうえで、メルロ=ポンティがメーヌ・ド・ビランを高く評価している点は注目に値する。

その第八講でメルロ=ポンティは、ブランシュヴィックの『人間的経験と物理的因果性』の分析から、心身問題におけるビランの独自性を引き出そうとしている。
マールブランシュが「自己意識」と「物についての意識」を明確に区別したのに対し、メーヌ・ド・ビランは「身体とその運動性との経験を出発点にする」(82)。(観念論哲学を標榜するブランシュヴィックは前者を評価し、後者を、哲学的な明証性を伝達不可能な個人的自我(心理学的証明)に貶めたものとして拒絶する。)
もちろん、メルロ=ポンティが与するのはビランの側である。ビランにとって心身関係の証明にとっては「事実」の確認だけで十分であった。「ビランの「非哲学」はむしろ、哲学に新しい領土を併合する増殖した意識に向おうとする努力の表現ではないのだろうか。」(85)メルロ=ポンティが評価するのは、ビランが努力の経験において見出した、運動と意識の同時性という原始的な「事実」である。「彼〔ビラン〕は、努力の意識がその手段についての完全な無知を伴っていること、またそれは運動の意識に先立つのではなく、この意識と同時的であることを承知している。」(85)ビランにとって努力の意識は、ある意志的決定と、有機体の反応に関する情報との出会いに出現する。すなわち、「事実がわれわれにとって存在するのは、われわれがわれわれ自身の個体的存在についての感情と、対象であれ変様であれ、われわれの個体的存在と競合しまたそれから区別ないし分離されている何ものかについての感情とをもっている限りにおいてのみである。・・・というのも、事実なるものは、もしそれが認識されているのでなければ、言いかえれば、認識する個体的・恒常的主体が存在しなければ、何ものでもないからである。」〔メーヌ・ドビラン『心理学の基礎についての試論』からの引用〕(91)
ビランはデカルトのように思惟する意識から出発するのではなく、この本源的事実から出発する。すなわちそれは、すでに画定された認識主体なのではなく、「自分が存在することを意識しつつある存在」に他ならない。ビランにとって事実とは、こうした自己の存在の意識へと向う「内在性と外在性との総合を指し示すのである」(92)。「主体は他のものから派生するのではなく、本質的にみずからを他のものに関係させるのである」(93)。ただ、ビラン自身はこの本源的な二元性を単に並置させるだけでそこからひとつの哲学を作り上げることはなかったというのがメルロ=ポンティの判断だ。

こうしたビランの議論に対しメルロ=ポンティは、その運動性と思考との関係を深化させる。ビランは単に自分の身体を動かす主体の経験について述べているのではなく、意志と知覚とのあいだに相互的な含み合いがあることを主張している。すなわち、「彼〔ビラン〕がわれわれに理解させようとしているのは、自分の身体を動かすこととそれ〔自分の身体を動かすこと〕を知覚することとの間には差異がないということ」(98)だ。「もし私が初めに自分の身体を動かしているという意識をもっていないとしたら、私は私の運動の諸手段についていかなる問いをたてることもないであろう。」(99)
そしてこの議論は、私の身体に対してのみ妥当する。というのも、他人の身体機構は外部に表象され、その運動性は外感に依拠するのに対し、私の身体に対する私の能力ないし意志は、もっぱら内感によって統覚されることによって明証的に認識されるからである。「もしわれわれが網膜の神経と発光体とを表象するのだとすれば、われわれはもはや色を見ないであろう。自分自身の内側に見るように組織された眼が、外側にあるものをどのようにして見ることができようか。まさにそんなわけで、自分自身の意志の働きのバネを客観的に認識するためには、自己であると同時に他者でなければならぬということになるのだ。」〔ビランからの引用〕(101)
この意味で、私の身体に対する私の知覚は、誇張的懐疑以前にある(知覚は誤らない!)。「ビランにとっては、デカルトのように「見るのは魂であって、眼ではない」と言うのは、誤謬となるであろう。」(126)

ここからメルロ=ポンティは以下の結論を引き出す。

「してみると、身体の認識は純粋に外的でも、純粋に内的でもありえない。もしわれわれが自分の身体に住みつくと同時に、それを認識しようと思うならば、われわれは自己自身であると同時に他人である必要があろう。まさにそこに、内部と外部の原始的二元性を権利上基礎づけようとする一般的試みの出発点があるわけである」(101)


こうした議論を踏まえた上で『眼と精神』などを読むと、私の身体、あるいは見えるもの(visible)に関する議論が尋常ならざる記述に思えて仕方がない。少なくとも、それは単に、私の身体が世界と同じ質料から構成されている云々といった議論に回収されるものではないだろう。しかし、ざっと検索したところ、『眼と精神』をメルロ=ポンティによるビラン解釈と関連付けて論じた文献が見当たらない。『思想』 (メルロ=ポンティ生誕100年) に、中敬夫氏による「身体の自己触発―メルロ=ポンティ、アンリ、ビラン」という論文があるので確認しておきたい。