超越、有限、感性=一般形而上学

カントと形而上学の問題 (ハイデッガー全集)

カントと形而上学の問題 (ハイデッガー全集)

なぜ数学や自然科学といった知が成立するのか。なぜ有限な人間の経験によってはその妥当性を論証することができないものが成立しうるのか。これをカントは「アプリオリな総合的判断はいかにして可能か」という問いで引き受けた。ハイデガーの主張は、このカントの問題を理解するためには、何よりも人間の本質としての「有限性」の開明が必要であり、それはすなわち形而上学の根拠づけを行うことと相同的であるとするものだ。
そして、「有限的存在者に対して、その中で「有と非有とのすべての関係が成立する」ような必然的な活動空間をはじめて開く」(91)もの(純粋認識)を構成しているのが、純粋直観、純粋構想力、純粋統覚の三元性であるとされる。
有限的な認識作用が問題となる限りにおいて、純粋に客観的に存立するカテゴリーもまたその感性化が問題となる。したがって、「一般形而上学の根拠づけとしての超越論的感性論と超越論的論理学との統一において到達したものを、より根源的に自分のものにする」ために、ハイデガーは、純粋悟性概念の図式性の重要性を理解することが必要であることを指摘する。これと相同的に、感性と悟性をつなぐ中間的媒介者として超越論的構想力もまた重要な基礎的要素として取り出される。「超越論的構想力は、オントローギッシュな認識の内的可能性およびそれと共に一般形而上学の内的可能性がその上に立てられる根拠なのである。」(130)

カントの形而上学の根拠づけは、オントローギッシュな認識の本質統一の内的可能性の根拠を問うものである。その根拠づけが突き当たる根拠が超越論的構想力である。心性の二つの根拠源泉(感性と悟性)の端緒に対して、この構想力は中間能力として押し出されてくる。(192)

さらに、カントにおける超越論的構想力は、悟性と感性をつなぐ中間者であるだけでなく、むしろこれら二つの能力を発生させ、それらを保持するものである。ハイデガーはこれを根源的時間における三つの様相(純粋統覚・純粋再生・純粋再認)によって根拠づける。すなわち、根源的時間は、自発的受容性であると同時に受容的自発性である超越論的構想力を可能にするのだ(193)。

超越論的構想力および図式性の本質的役割、三つの時間様相による根源的時間規定、主観の主観性、これらが人間の有限性を規定している。そして、この人間の有限性が、経験の可能性の規定化を意味する限りにおいて、それは自らの現有〔現存在〕を超越し、かつ自らがそれに依存している有〔存在〕に「対立してある」ということ自体を問う可能性を開くことになる。だからこそ、カントにおける「形而上学の根拠づけは、人間における有限性への問いにおいて、しかもそれはこの有限性がいまやはじめて問題となりうるという仕方で根拠をもつ」(211)ことになるのだ。


最後の章はカントにおける人間学がいかに形而上学を根拠づけるのかという内容のもの(のはず)なのだが、明らかに前章までに見られた「切れ」がなく、『存在と時間』の単なるレジュメにしか見えない。付録にカッシーラーとのダヴォス論争が収められているが、そこでカッシーラーが「君の話だと、人間の有限性がいかに必然的かつ普遍的な真理に到達しうるのか、あるいはそのような真理の存在そのものを問うこと自体不可能となるのではないか」という批判があがるのももっともなように思われる。