一般に翻訳とは、ある言語によって書かれたものを母国語などの他なる言語によって移し換えることです。したがって、翻訳が成立するためには、翻訳される言語と翻訳された言語との間に差異がなければなりません。ここから、「翻訳とは何か」という問いがすぐさま「言語とは何か」という問いに直結することがわかります。ともあれ、ここでは、言語においてどこにこうした差異が見出されるのかということを問題にしたいと思います。

まず考えられるのが、先にのべた母国語と外国語など、異なる国語間に見出される差異です。しかし、この差異は、国が異なるから生じるのか、あるいはそもそも差異があるから国語が異なるのかという問題に直面します。この問題は言語とナショナリティ、言語における国家の政治的介入といった興味深い論点を多く含んでいますが、これは今は措きます。ともあれ、一般的な意味での翻訳という行為は、こうした他国語間の差異という水準において理解されると思われます。

ところが、言語における差異は、何も他国語間にのみ見出されるものではありません。すぐ思いつくように、同じ国であっても地方によってさまざまに用いられる言語、すなわち方言があります。これは同一言語内での差異だから、他国語間において見られるほど大きな差異、つまり理解不可能なものではないと思われるかもしれません。関東で用いられている方言と関西で用いられている方言などを想定すればそれらの相違は取るに足りないものかもしれません。しかし、地域的により離れた地方で話される方言を考えてみれば、外国語と同様、まったく理解不可能なものであることが容易に想定されます。これはもちろん、地域的な距離の遠さだけでなく、時間的な距離の遠さにも適用することができるでしょう。またこうした観点からすると、標準語というものを話している人間など存在しないことが分かります。関東のことばであったとしてもそれは他の地方との関連においては方言でしかないからです。重要なことは、標準語が存在しないということではなく、標準語というのは諸方言間の相対的な関係性においてのみ規定されうるひとつの抽象的なモデルだということです。もちろん、ここにも先に指摘した、国家や政治、ナショナリティの問題が絡んできます。

さて、これまで確認してきたことは、言語における差異が見出されるのは、異なる言語と言語の間、および同一言語内における方言と方言の間であるということでした。しかし、こうした国語や方言における差異より前に、言語における重要な差異が見出される場所があります。それは、話者と聴者との間です。殊更言うまでもないことですが、言語はひとりの人間だけでは決して生じません。独り言というのがあると言われるかもしれませんが、人は、自分が語るときに自分の声を聞くことなしに語ることはできません。すなわち、独り言とは、他者との間にすでに成立している関係を単に類推的に個人に当てはめているにすぎないのです。言語における差異は、この話者と聴者との間に見出されます。

今、「自分が語るときに自分の声を聞くことなしに語ることはできない」と言いました。ここでは、私は語ると同時に聞くという二つの役割を果たしています。つまり、言語における差異は、話者自身の中にも見出されるということです。
では私は自分が語るとき何を聞くのでしょうか。容易に考えられるのは、一連の物理的な要因によって生み出される音でしょう。例えばイヌという音は、イという物理音とヌという物理音によって構成されています。しかし厳密に言うと、ここで私たちはイやヌといった物理音を聞いているわけではありません。実際の場面においては、イとヒ、ヌとムなどはほとんど区別がつかないほど類似していて聞き分けることが困難です。つまり、私たちは単に物理音を聞いているのではなく、イに引き続いてヌが発声されるのを聞くことによって、それがアでもウでもなく「イ」であり、ナでもネでもなく「ヌ」であったことを事後的に知るのです(事後的とはいえここでは経験不可能な時間が問題となっていますが)。
ここでの「イ」や「ヌ」といったものを、言語学では音素といって物理音から区別しますが、このように、一連の音の連鎖が、それを構成している音素間の区別(これを弁別特徴といいます)を事後構成的に示すという事実を明らかにし理論化したのが、ロシアの言語学者ローマン・ヤコブソンを代表とするプラーグ言語学派の功績でした。

そして、このようにイヌという音が聴取されるやいなや、私たちはそれが一般に「犬」という名で呼ばれる特定の動物種であることを理解します(厳密には、これが「犬」と理解されるということも注意して考える必要があります。イヌという音だけではそれが「居ぬ(居らぬ)」かもしれないという可能性を払拭できないからです)。このように聴取された音に伴う「犬」のようなものを一般的に表象と呼びます。この場合のように「犬」であれば、何かしらの個別的なイメージを伴っているかもしれませんが、想像不可能な対象(千角形など)のようなものはイメージを伴いません。したがって、表象においてイメージはまったく必要がありません。表象においてイメージが必要ではないということは、表象においても、先ほどの物理音のときと同様に、私たちは「犬」という概念を直接的に認識しているわけではないことが分かります。それはまさに、「猿」でもなければ「猫」でもなく、「机」でもないものとして「犬」を理解しています。ラネカーなどの認知文法、あるいは認知言語学が指摘しているように、ある一定の言語表現に伴ういくつかのパターンがある程度は規定されており、諸個人間の認知においてある程度の類似が認められるのも事実ですが、そのパターンは無限にあるのであって、人間がそれらをひとつひとつ記憶し、それらを実際の言語運用において逐一用いているというのは、物理的、発達論的な観点からしても不可能でしょう。

したがって人が語るとき、適切にいうと、話者が語るときに自らの語りを聞いている場合、そこに見出されるのは、音素によって構成されている物理的な音の連鎖と、それに伴っているイメージなき表象との差異です。そして言語学者ソシュールは、前者を音響イメージ、後者を概念と呼びました。

重要なことはふたつあります。まずこれまで確認してきたように、音響イメージにおいても概念においても、私たちは単一の音の連鎖なり、単一の概念をそれ自体として直接的に把握しているのではないということです。私たちが語りを聞くときの音響イメージとは、無際限に存在する音の無限の連鎖からなる音と音との間の関係です。それはノイズと言語音との間にある無際限の程度の差異であると同時に、昨日発せられた「諸君」という発声と今後発せられるであろう「諸君」という発声との間にある無限の差異からなる多様体における関係性です。また、音響イメージに伴う概念もまた同様に、無際限に存在する概念の無限の連鎖からなる概念間の関係のことです。音響イメージも概念のいずれもが、こうした無限の多様体ともいうべき対象であり、音響イメージと概念の間に見出される差異そのものが、こうした二つの差異の多様体の間にあることが分かるでしょう。
そして、より重要なことは、話者における音響イメージと概念の結合は、私たちの経験的な時間においては厳密に同時的であるということです。したがって、音響イメージと概念との間にある差異は、継起する時間のような私たちの一般的な時間表象によっては絶対に捉えられません。にもかかわらず、「自分が語るときに自分の声を聞く」とき、音響イメージを聞くということと、そこで聞かれたものとしての概念は厳密に区別されるのです。話者における聞くこと(音響イメージ)と聞かれたこと(概念)との間に、経験的には与えられない差異が生じること、この二重性の発生こそが言語においてもっとも重要なものであると思われます。そしてこの二重性こそが、一般的に意識という名で呼ばれるものの実態であると思いますがこれはまた次の機会に述べます。

これまでの議論で分かるとおり、私たちが言語と呼ぶものはこうしたきわめて雑多な要素から成る複合体であり、無際限の差異を含んだ対象なのです。こうした異なる複数の多様体から構成される私たちの言語現象のことをソシュールは言語活動(ランガージュ)といって言語から区別しました。ソシュールにとって言語は、こうした言語活動においてある一定の期間においてのみ保持可能な社会的慣習や制度であり、それは言語活動における相対的に自律的な定義をすることが可能な部分であると考えられています。

私たちはこれまで、故意に意味やコンテキスト、あるいは意識と意識内容といった伝統的な概念を排除して議論を進めてきました。それはこうした伝統的な概念が、複雑な言語活動という問題系をそもそも隠してしまう危険性があるからであり、こうした概念を排除することで、翻訳の問題そのものを言語活動という無限の多様体へと結びつけるためです。こうした観点からすると、単に他国語間において行われているように思われる翻訳という行為は、実際には、こうした言語活動の総体という無限の差異から構成されている多様体を内に含んだ行為であることが分かります。すなわち翻訳とは、国語から話者の水準に至るまで、無限の差異と無限の差異との間に、あるひとつの結合を作り出す行為であり、その限りにおいてきわめて創造的な行為であるといえるのではないでしょうか。(続く)