院の先輩方々がいっせいに駆動し始めている模様。
仏哲のKさんも、人類学のKさんも・・・って俺含めみんなKじゃないか!


っと、わたくしKは目下の目標である修論にむけて、「絞る」作業をば。



を読む。

ドゥルーズは単著、共著に関わらず、その最初期の作品から後期に至るまで、常に記号(signe シーニュ)という概念にこだわり続けてきた。
あるときは、記号の分類学を行い(『プルーストシーニュ』、『シネマ1,2』)、あるときは言語学に対するあからさまな批判を展開する(『千のプラトー』)。

表面上これらの仕事は、単発的な、言語学批判、表象批判、一般的な哲学的著作が含意するドクサに対する反抗であると評価される傾向にある。
Colombatが主張するのは、ドゥルーズ自身が構築しようとする記号システムに対する「おもなインスピレーションは、彼の生涯にわたるスピノザ研究からきたものである」ということだ。
あらゆる作品において、ドゥルーズはどのようにして、記号、指示作用、意味作用、表象という問題系を、「表現(expression)」という問題系と置き換えていったのか。
この論文は、ドゥルーズスピノザ研究における、「強度」、「アフェクト」、「表現と表現されたもの」、あるいは「巻き込み」、「包み込み」、「展開」といった概念が、いかにして言語学的な記号概念を退け、純粋な「表現の線」、言語あるいは経験を可能にする条件を打ち出す契機として機能しているのかを概観することが主題である。



記号という概念を中心としてドゥルーズの哲学を外観したとき、『スピノザ実践の哲学』におけるいわば「情動の記号論」とでも言うべき、あるいは『千のプラトー』における集団的アレンジメントと欲望のアレンジメントによる、いわば「機械状プラグマティズム」とでも言うべき独自の記号論がいかにして形成されえたのかということを考えなければならない。
また、そのような後期の著作の動向を視野に入れてもなお、『差異と反復』、『意味の論理学』を中心とした初期の作品群を肯定的に評価することははたして可能であるのか。