自己矛盾的自己統一

資本論の哲学 (平凡社ライブラリー)

資本論の哲学 (平凡社ライブラリー)

マルクスが『資本論』第一巻「商品論」で示したのは、直接生産過程において、使用価値(寒さを凌ぐための上着がもつ価値)と交換価値(20エルレのリンネルに値する上着の価値)の「自己矛盾的自己統一」として成立しているのが「商品」であるということだ。単に使用価値としてだけの上着は「学としての経済学の対象ではない」。経済学において使用価値が対象となるのは、それが「交換価値の質料的担い手」たるかぎりにおいてである。すなわち、ある商品の価値は、それが交換されることによってのみ生じるが、この商品が交換されるためにはそれが単なる使用価値だけでなく、交換されるに足る価値をあらかじめ持っている必要がある。これは明らかにパラドクスだ。しかし広松氏は、この矛盾を引き受け、むしろマルクスはこれを肯定的に捉える視座を提示しているのだと主張する。『世界の共同主観的存在構造』で論じられた四肢的構造、および関係としての一次的存在了解などを念頭に置きながら、広松氏はマルクスの論理構制のなかに使用価値と交換価値との相補的(弁証法的)対立を見て取り、いかにしてこれが哲学的伝統上における唯名論実念論との二項対立を超える地平を拓くものであるのかを論証している。

この夏、ソシュールに関する「文章」を書いていたのだが、このマルクスにおける論理的矛盾ないしパラドクス、および、それに対して提示された論理構制が、ソシュールにおける言語の問題とまったく相同的であることに気づく。ソシュールもまた同様に、言語はわれわれの経験において直接与えられるのではなく、質料的な音と形相的(社会的)な価値の複合体としてのみわれわれに与えられると考えている。ならば単に物理音の変遷や発声器官の調整といった質料的側面だけを扱う音声学などは言語学とは言えず、むしろ、その学を成立せしめている言語それ自体を研究対象としなければならない。悪く言えば、音声学や歴史言語学は、音声変化や語族や属格などといった抽象の産物を言語と置き換えることで、上記のパラドクスをひた隠すことでのみ成り立っている。むしろソシュールはこのパラドクスを正面から引き受け、マルクスと同様、それに応じた理論体系を構築しようと試みる。

今のところ「裏をとって」いないので確証的なことは言えないが、ソシュールが言語を関係論的な価値として考えていたことは周知の事実だが、「価値」に関するソシュールの手稿を見ると、それが「経済学由来」の概念であることが明確に述べられている。ソシュール自身がマルクスを読んでいたかは定かでないが(出版状況、年代的に見てもない話ではない)、ともあれマルクス自身が独自の価値論を展開した理論的背景をソシュール自身もまた言語学という領域において、同じように共有していた可能性は十分にあるだろうし、これはある程度実証的に「裏を取る」ことのできる論点だろう。

あと、ソシュールマルクスの類似が示唆しているのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、すでに超越論的哲学がひとつの理論的な限界(肯定的にいえば完成)をむかえていたということではないだろうか、と思う。これ以降のいわゆる超越論的哲学において、上記のパラドクスをマルクスソシュール(ここにフロイトを含めても良い)が行ったように関係論的視座から解消する以外になにか別の方策が「肯定的に」示されたことがあっただろうか。勉強不足ながら私は知りません。これはもちろん悲観することではなく、彼らを相対化して語るための第一歩ではあるのだけれど。