自己矛盾的自己統一
- 作者: 廣松渉
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2010/09/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この夏、ソシュールに関する「文章」を書いていたのだが、このマルクスにおける論理的矛盾ないしパラドクス、および、それに対して提示された論理構制が、ソシュールにおける言語の問題とまったく相同的であることに気づく。ソシュールもまた同様に、言語はわれわれの経験において直接与えられるのではなく、質料的な音と形相的(社会的)な価値の複合体としてのみわれわれに与えられると考えている。ならば単に物理音の変遷や発声器官の調整といった質料的側面だけを扱う音声学などは言語学とは言えず、むしろ、その学を成立せしめている言語それ自体を研究対象としなければならない。悪く言えば、音声学や歴史言語学は、音声変化や語族や属格などといった抽象の産物を言語と置き換えることで、上記のパラドクスをひた隠すことでのみ成り立っている。むしろソシュールはこのパラドクスを正面から引き受け、マルクスと同様、それに応じた理論体系を構築しようと試みる。
今のところ「裏をとって」いないので確証的なことは言えないが、ソシュールが言語を関係論的な価値として考えていたことは周知の事実だが、「価値」に関するソシュールの手稿を見ると、それが「経済学由来」の概念であることが明確に述べられている。ソシュール自身がマルクスを読んでいたかは定かでないが(出版状況、年代的に見てもない話ではない)、ともあれマルクス自身が独自の価値論を展開した理論的背景をソシュール自身もまた言語学という領域において、同じように共有していた可能性は十分にあるだろうし、これはある程度実証的に「裏を取る」ことのできる論点だろう。
あと、ソシュールとマルクスの類似が示唆しているのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、すでに超越論的哲学がひとつの理論的な限界(肯定的にいえば完成)をむかえていたということではないだろうか、と思う。これ以降のいわゆる超越論的哲学において、上記のパラドクスをマルクスやソシュール(ここにフロイトを含めても良い)が行ったように関係論的視座から解消する以外になにか別の方策が「肯定的に」示されたことがあっただろうか。勉強不足ながら私は知りません。これはもちろん悲観することではなく、彼らを相対化して語るための第一歩ではあるのだけれど。