シニフィアンの全体は一挙に与えられなければならない!?

本日はレヴィ=ストロース読書会。とかいいながら、読むのはピアジェの『構造主義』(白水社)。
なにかと歪曲されて理解されることの多いレヴィ=ストロースの構造概念を理解する上では、彼に向けられるあらゆる批判を検討することが必要。したがって、1960年代後半においてピアジェがどのように構造主義を理解し、またどのような立場から、彼がレヴィ=ストロースを「永遠不変の人間精神の信奉者」と形容するに至ったのかを明確にしようというのが本日の目論見。


ピアジェ構造主義の基本的公準としてあげるのが、①全体性、②変換性、③自己制御という三つの特性。構造が内的諸要素の累積的な関係によるのではない仕方で、構造の法則を形成するためには、構造それ自体が、より一般的な他の構造の下部構造として保存されるような、階層的変換性を持たなければならない。そしてそのより一般的な構造における下部構造は、そこにおいて排除されるのではなく、自己制御によって自らを内包する構造との境界を画定する。


このような構造理解から、レヴィ=ストロースの構造概念は、きわめて論理的に進んだものであるとはいえ、説明的価値の乏しい、静的な構造であると批判される。


疑問としては、ピアジェが意味と機能を同一であると考えていることである。もっとも、彼自身自覚しているが、これはレヴィ=ストロースのスタンスとは非常に異なる。

レヴィ=ストロースが『マルセル・モースの業績解題』で述べているのは、意味作用(あるいは意味体系)とは一挙に身を置かねばならないものであり(意味か無か!)、それに対して、その記号というひとつの実体におけるふたつの側面であるシニフィアンの過剰とシニフィエとの不均衡を調整していく漸進的過程のことを認識と呼んでいるのであって、意識的に両者を区別している。意味作用とは認識作用が可能であるためのいわば「超越論的条件」として存するのであり、単に現働的、観察可能な事実の関係性のことではない。無論、ピアジェはそのようなものを前提とすることにいかなる説明的価値もないと考え、むしろそれこそ、あらゆる研究領域、あるいは実験によって実証されなければならないと主張するのであるが・・・。


と眠くなったので、この辺にしときます。
まま、いろいろと問題は山積。来週はドゥルーズA quoi reconnait-on le structuralisme? を読む予定。