宿題
以下の文章にはいかなる確証も裏づけもなく、単なる私的なメモに過ぎませんので。
宿題「歴史と体系の連関性―レヴィ=ストロースとドゥルーズをめぐって」
そもそもドゥルーズにおいて歴史的時間、通時的概念はどのように位置づけられていたのか。
・『差異と反復』
『意味の論理学』
→これらの理論体系を一応「構造主義的」構成として認めたうえで。「構造主義における時間とは常に構造から現実化における時間でしかない。」と言明する以上、通俗的な意味における歴史の時間的展開(無論そこには、社会的経済的展開だけでなく、生物個体の形態形成、種の進化も含まれる)は排除される。それらは偽の運動(ヘーゲル主義)であり、単なる光学的効果に過ぎない。
また、静的生成、動的生成といえどもそこに一般的な時間概念は介入しない(あくまで、「タガがはずれた空虚な時間形式」(第三の時間))。
・『アンチ・エディプス』
『フーコー』
『千のプラトー』
→しかし他方で、常に歴史と体系の連関性を問題としてきた文脈があるのではないか(という指摘)。この点についてはまったくの受け売りのため、まったく確証なし。おそらく『フーコー』「地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの(知)」を念頭において言われているのであろう。
これまでのワタクシ自身の思い込みとして、歴史性と体系性を問題とするのは、マルクス主義的議論の内部においてのみ可能なことであって、そのような思想的文脈の外部に意図的に身を置くドゥルーズにとって、そもそもそのような事柄が議論の対象となるとは思っても見なかったということがある。しかし、数学的構造の発生論(ロトマン、カヴァイエス、グランジェ)とフランス科学認識論(バシュラール、カンギレム、アルチュセール)といった「裏の系譜」とドゥルーズの関係を考えてみれば、そのような問題提起も可能であると思われる(とはいえ、それらもまたマルクス主義的議論の一部として切り捨てることができるのかもしれないのだが)。そこで、いったんこのような「思い込み」を脇に置き、少しだけ考えてみようと思う。
期限は二週間。当面の目標は、