二人称はいかにして成立しているのか。(人称の言語的分類として一、二、三人称があると言ってしまえばそれまでだが。)

広辞苑によると、一人称とは話し手自身である自分を指す人称であり(しかしこの定義は同語反復である。すなわち、一人称は定義不可能。と、とりあえずは言っておく)、二人称とは一人称である私が話しかける相手を指す人称のことである。さて問題は、どのような順序で、またいかにして人称性が分節化され二人称が成立するのかということだ。平たく言えば、なぜ私は目の前の人を「あなた」と呼ぶことができるのかということだ。
(以下の議論は、いかなる言語学も論理学も前提していない。ただの「思いなし」である。)
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二人称はいかにして成立するのか。一人称とは僕である(定義)。この時点では僕と僕ではないものとの区別があるだけであり、机やリンゴといったものから僕以外のものから区別して君を指すことはできない。
そこで次に、僕がその中に部分として含まれる全体が措定される。僕は全体としての「事物」の部分であるし、また「動物」の部分であったりする。こうした全体の及ぶ範囲を局限していけば、僕を部分として含む全体としての「人間」が取り出される。「事物」「動物」「人間」のように、時に、類や一般者といった名で呼ばれるもの、これが三人称である。
そしてこの三人称の中から、僕が対面する限りにおいて他の部分から区別される部分を「きみ」と呼ぶことができる。こうしてはじめて二人称は成立する。
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実はここまでの話は枕で、重要なことは、以上の「駄話」の中のある時点において、一人称が質的な変化を被っているということだ。
一人称の僕とは、僕が僕であるとしか言いようがないという意味で特異的(singulier)であったはずである。なのに、その僕が部分として含まれる全体としての三人称(géneral)が措定された途端、僕は特異ではなくなってしまう。なぜならこの時点ではもう、あなたも、あなたも、あなたも…すべて「僕」なのであって、彼らは皆が皆、一人称であるということにおいて区別ができなくなっているからである。こうなってしまっては、一人称としての僕は個別的(particulier)ではあるとはいえても、けっして特異的であるとはいえない。翻って、三人称が措定されてしまうかぎり、いくら僕が対面する「きみ」であっても、それは個別的な存在者としての僕に対面するきみでしかない。


私と他者がその部分として含まれる全体としての三人称などそもそも虚構であると述べるのはレヴィナスである。特異的な主体としての私が対面し、語るものである限りにおいて「他者」は存立する。

「ここで問題の〔私と他者の〕不等性は、私たちを数としてかぞえる第三者にはあらわれることがない。不等性が意味しているのは、私と〈他者〉とを包括しうる第三者が不在であるということにほかならない。」(158-159)

「その結果、本源的な多数性が、その多数性を構成する対面のうちで確定されることになる」(159)。すなわち、個別者ではない限りでの多数の特異な主体が対面することこそ、「他者」の多元性を担保しているのだ。

「本源的な多数性が生起するのは多様な単独性に対してであって、その数に対して外的であり、そのため多様なものを数としてかぞえる一箇の存在に対してではない。唯一それだけが不等性を廃棄してしまうことの可能な外的視点がありえないことで、不等性が存在しているのである。」(159):強調は引用者


今日の話は、こうしたレヴィナスの議論(『全体性と無限(下)』、熊野純彦訳、岩波文庫、2006年、pp.158-159.)を読んでいて「思いなした」ことである。