マゾヒズム的共同体

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ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

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著者自身が述べているように、この著作はジェンダーセクシュアリティに関する諸説の解説や概説を目的としてはいない。むしろ田崎氏が(無論、理論的な意味で)構想している「マゾヒズム的な共同体」の可能性を描き出すことを目的としている。それは、他者に対する位置取りの差異や、器官的特徴による性差の分類によって規定されるのとは異なる仕方で自己を描き出すことであり(これを田崎氏はマゾヒスティックな主体と呼ぶ)、セクシュアリティの問題を本質主義とも構築主義とも異なる別種の水準で概念化することを必要とする。すなわち、暗黙的に他者との依存関係を担保しながら、受動性を能動性に転換しただけのサディスティックな主体性とは異なり、「自分自身を享受するのに他者に依存しなくてすむ」「受動でも能動でもない、中動としての「自己」」(94)を描き出さなければならない。したがって、著者は、キャサリン・マッキノンの本質主義を批判するジュディス・バトラー構築主義という構図を説明しつつ、これら両者ともに対して批判的立場を取ることになる。

そして田崎氏が依拠するのは、生物学の議論(動植物というより、細菌やウィルス)における性、セックスの概念である。性と生殖を結びつけてしまうのはわれわれ多細胞生物の偏見であると著者は言う。そもそも生物学的に言えば、セックスとは、DNAの交換による遺伝子組み換え技術のことであり、個体の増加に関わる生殖とは別の概念である。すなわちそれは、次世代に遺伝情報を伝達するのではなく、あくまで環境の変化などによってDNAによるタンパク質の合成が妨げられ、生物個体そのものが死ぬことを防ぐために、自分のDNAを自己複製したり修復する技術のことなのである。

つまり、性は、種の存続というよりも(そもそも細菌では「種」という概念が成り立つかどうかも怪しい)、むしろ、個体の存続という切実な要求に応えるものとして始まったのだ。......(中略)紫外線や活性酵素、あるいは、その他の化学物質やエネルギーなどに晒され、さらには分裂の際の突然変異などで、DNAは時間の経過とともにダメージを受ける。性はDNAのこの損傷に対する修復機構の延長として生まれた可能性が高いのである。(47)

そしてより重要なのは、別の個体のDNAのある部分をモデルにして自己のDNAの複製を行うためには、外部から取り込んだ他の細胞を自らの酵素によって分解しないこと、すなわちそれによって栄養摂取をしないことが必要となる。「外部を貪り喰わないこと、動物的生の停止がセックスの条件なのだ」(47)。ここに著者がマゾヒスティックな主体のあり方のひとつを見ているのは明らかであろう。
こうした社会的分類以前の生の様態、自己の自己に対する関係性の議論に、例えばアガンベンの「ゾーエ」やフーコーによる「自己のテクノロジー」の議論を重ねることで、著者はマゾヒズム的な主体のあり方を論述していく。


マゾヒズム的な主体、およびそれによって構成される(であろう)社会とは異なる共同体という考えは、著者がつねに参照するドゥルーズの「独身者」(『カフカーマイナー文学のために』)や徒党集団(『千のプラトー』)の議論に呼応している。しかし、このあらたな共同体の形成については、この著作において積極的に論じられることはない(この点に関してはドゥルーズも同様であると言わざるをえない)。著者は、受動的に形成されるマゾヒズム的な主体がいかに社会や国家に取り込まれるように「誘惑される」のかを論じるための「当て」として、精神分析レオ・ベルサーニ)とポスト・フォーディズム資本論パオロ・ヴィルノ)を挙げるに留まっている。