「翻訳と理解」

 同僚のM氏が主導となり「翻訳論研究会」を立ち上げた。M氏の関心が、翻訳という行為における創造性、すなわち、ある言語から別の言語への変換において、共有されている(とされる)意味とは異なる何か(それはあらたな意味や情動、あるいはなんらかの行為かもしれない)が創造されるという事態に向けられているのに対し、僕の関心は、翻訳という行為そのものがいかにして可能となっているのか、その根本的な機構を明らかにすることにある。自分の問題意識を整理するために考えながら少し書いてみる。

 まず、根源的な問いとして「翻訳とはなにか」というものがあるだろう。古くは聖書解釈にはじまり、他言語の理解、文学作品の翻訳、もちろん音楽作品や芸術作品における変奏や模写も広義の翻訳であると考えることができる。すなわち、翻訳とはきわめて広い領域にまたがる人間の行為のひとつである。それゆえ、それぞれの水準、領域に固有の手段や規則があり、そもそも翻訳一般について定義することはきわめて困難である。
 しかし、いずれの水準においても、翻訳する者とその対象が必ず存在しなければならないということが必要条件として考えられるだろう。すなわち、翻訳という行為はある種の他者(非常に広い意味で。自分とは異なるすべてのものとしての他者)理解であると考えられる。たとえば、ある言語を別の言語に翻訳するということは、その対象がどのような文脈におかれており、それがどのようなことを表現しようとしているのかということを、翻訳する者がどのように理解しているのかを提示する行為である*1。ここには、対象を理解する主体と、その対象と主体との関係を理解する主体という二重構造がある。この二重構造は単に対象を理解する場面に留まらず、自分の発話を同時に自分が聞くという主体の二重性*2にそのまま適用することができる。そして、この二重構造が翻訳における創造性の発生を可能にする最小限の条件であると思われる。いずれにせよ、このように翻訳とは、単に翻訳する者と対象との関係だけではなく、主体の形成にも関連しており、翻訳という行為が、その外延のみならず、その内包においてもまた複数の要素から構成されていることがわかるだろう。

 とにかく、繰り返すと、翻訳とは広義の他者理解である。しかし、ここで確認しておくべきことは、翻訳と理解というのは、決定的に異なる水準に属する行為であるということだ。相手(対象)を理解するということは、徹底的に個人的な行為である。すなわち、私の他者理解と、同じ対象に対して行われた別の人の理解とを比較し、いずれか一方を正しいか、誤っているかを決定的に判断することは決してできない。個人の理解という水準に留まっているかぎり、それを決定する判断基準がないのだ。この意味で、ある理解と別の理解のあいだには絶対的な比較不可能性があり、理解とはつねに相対的なものとなる(いうまでもなく、理解する当事者のパースペクティヴを取れば、その理解はつねに絶対的なものとなるだろう)。
 しかし、この理解を、なんらかの媒体(言語、音、身振り、表情など)によって表現することができる。こうした理解から表現までの一連のシークエンスを待ってはじめて翻訳という行為が成立する。逆にいえば、翻訳においてはつねに、自らの理解を表現として提示することが不可欠となる。そしてこの表現の水準においてはじめて、その理解の客観的妥当性の判断が可能となる(厳密にいうと、客観的妥当性の判断が可能となる水準が開かれる)。翻訳とは、こうした絶対的に個人的な理解と、任意の媒体によるその表現という客観的な妥当性が判定可能となるような、異なる二つの水準から構成されていると考えられるのだ。(つづく)

*1:この意味で翻訳とはつねに解釈であるのは明らかであるが、ここでは論じることができない。

*2:ちなみに、発話と聴取の二重性が言語行為において根本的な役割を果たしている。