増田靖彦「思考と哲学―ドゥルーズハイデガーにおける」(『ドゥルーズガタリの現在』所収、平凡社、2008年、pp.513-536。)
※〔 〕は執筆者自身による挿入。


ドゥルーズの『差異と反復』が、「時代の雰囲気」であったハイデガーによる差異の哲学にその多くを負っていることは疑いえない。しかし、両者の相違点は、彼らのニーチェ解釈において、とりわけ力への意志をめぐる解釈の相違において明瞭となる。

ハイデガーによれば、力への意志とは、力が自己を超出し、自己をいっそう高みに引き上げ、そうした自己の高みにおいて、自己を自己自身のうちに保持することである。・・・これが力への意志にほかならない。(521)

これは「脱自的な自己固有化の運動」としての現存在の議論とパラレルである。ハイデガーにとっての問題は、存在と存在者のあいだの存在論的差異がいかにして「本来的な」自己固有化という「同一的な」運動を生み出すのかということであった。したがって、ハイデガーにとって力への意志と力量は、「本質的に同じものに帰着すると言って良い」(522)。


これに対しドゥルーズは、ニーチェ力への意志(puissance)と力量(force)を概念的に区別していることに着目する。ドゥルーズによれば、

力量の本質は他の諸力量との量的差異であり、この差異は〔反動的と能動的という〕力量の質として表現され、しかもそのいずれもが力への意志から生じてくるというのだ。(519)

すなわち、「力への意志は、諸力量の差異的かつ発生的なひとつのエレメントである。つまり、「根源的な差異である力への意志が、それ自体における差異として、力量の量的差異を関係させる」とドゥルーズは考える。すなわち、「力量と力への意志は徹底的に異質なものであり、いわば二重に差異化していく〔前者における能動と受動という異なる質の差異化を生産する〕運動なのだ」(522)。

さらにハイデガーは、「自己固有化の運動が駆動される契機そのものを解明する」という生成の創造そのものに関わる問題を「あまり顧慮しなかった」(523)。このため、ハイデガーにおける存在が極めて平準化された構造〔固定的で、あえていえば超越的な構造〕しかあてがわれていないように思われるというのが増田氏の判断だ。

これとは対照的に、ドゥルーズはいかにして力量の質(存在者)を力への意志(絶えざる差異の生成である、差異そのものとしての存在)が発生させるのかを問題とする。ハイデガードゥルーズの根本的な相違はここにある。すなわち、

両者の違いは、存在に発生―――あるいは根源における差異との絡みから、異質発生と形容したほうが適切かもしれない―――、さらには生成としてのプロセスをみるのか、それともアレーテイアとしての真理をみるのか、という思考の態度に集約されるだろう。(532)

この意味で彼らは「もはや真っ向から対立する様相を呈するようにさえ思われてくる」(522)。増田氏はこの論点から、ドゥルーズ潜在的なものと現働的なものとの組み合わせを、ハイデガーの存在と存在者の組み合わせに見立てるバディウの見解に不同意を表明している。


                          

増田氏は、ハイデガードゥルーズとの違いを、存在と存在者のあいだの発生の議論の有無にみている。しかし、『意味の論理学』の動的発生の議論を含めて考えれば、それにとどまらず、存在から存在者の発生の議論(つまり個体化の議論)そのものが、個体の発生のエレメントである一義的な存在(『差異と反復』の表現で言えば、強度やréel)を発生させるという論点が『差異と反復』にも含まれていたのではないだろうか。個体化の議論はあくまで、潜在的なもの(virtuel)と現実的なもの(actuel)の組み合わせによって構成されているとはいえ、『差異と反復』全体のシステムとしては、そこに実在的なもの(réel)が挿入された三つ組の構造となっている。(これが『スピノザと表現の問題』において提示された、実体と様態と属性(の一義性)の議論に対応しているのを見るのはたやすいだろう)