ドゥルーズとアドルノ。

否定弁証法講義

否定弁証法講義

今回、この『否定弁証法講義』を読んでいて、途中からドゥルーズの『差異と反復』の概説を読んでいるような錯覚に陥った。ドゥルーズアドルノ。思想的にきわめて近接的だと思うのだけれども、調べてみると、両者を類比的に論じた文章はほとんどない(英米系に少しあるとはいえ、どれも音楽や芸術関連ばかりだ)。日本では檜垣立哉氏が、アドルノの朋友であるベンヤミンと、ドゥルーズの思想的な連関性について正面から論じている、稀有な存在だ*1

ドゥルーズアドルノの類似性は、たとえば、同一性と排除の論理に従うハイデガー批判、ヘーゲルにおける現実と理念の弁証法モデルの批判的な受容といった、研究対象の類似性に起因するように思われる。アドルノは、思考それ自体が自発的に思考する権威をもつのではなく、むしろ「思想の構造は、その思想の圏内にある、歴史的に現に存在している思考の形態によって作り出される」(70)という。この論点は、ドゥルーズの「思考のイメージ」の議論そのものである(もちろん、このときの両者に共通の参照項は、マルクスイデオロギー論であるが)。

しかし、より重要なことは、ドゥルーズとともにアドルノもまた、ある種「経験論」の鋳直しを試みているということだろう。アドルノは、哲学は自らがあらかじめ設定した座標軸や立場から対象を捉えるのではなく、まずもって「対象の多様性」に対して哲学自身が身を委ねなければならないという。

哲学は自らの対象を鏡として用いて、そこにつねに自分自身を再認する、というのであってはなりません。・・・みなさん、一方で無限な対象を支配していると自惚れもせず、他方で自分自身を有限なものともしない、そのような哲学は、概念による反省という媒体における、何一つ割り引かれることのない、まったき経験にほかならない、と言えるでしょう。あるいは、それこそ精神的経験である、とおそらく呼ぶこともできるでしょう。私がここで経験概念を用いることで注意したいのは、私が遂行している方向転換、ないしは私がいくらかなりと寄与したいと考え、みなさんに説得力のあるものとして示したいと思っている方向転換が、いくらか込み入った弁証法的な仕方で、経験論の救済もまた意図している、ということです。すなわち、ここでつねに原則として重要なのは、実際、下から上への認識であって、上から下への認識ではありません。肝心なのは自分自身を対象に委ねることであって、演繹ではないのです。ただし、経験論のさまざまな潮流がそなえているのとは、まったく別の性格、まったく別の認識目標がそこには伴われています。(141)

否定弁証法という概念装置によってアドルノが示すのが、こうした精神的経験と呼ばれる方向性であり、差異と反復(理念と強度、潜在性と現実化)によってドゥルーズが示すのが超越論的経験論という方向性である。そして、彼らの思想を下支えしているのは、肯定性というものに対する絶対的な信頼であろう。アドルノはおそらくはハイデガーを念頭に置きながら次のように言う。

私がみなさんに説明しようと試みている立場を何より明確に示すものは、私の立場は悲劇の概念を決して認めないこと、すなわち、存在しているいっさいはその有限性のゆえに没落にも値するのであって、この没落が同時にその無限性の保証であるといった考えを決して認めない、ということだと思います。伝統的な思考のなかで、これほど私の考えと対立するものはおそらくない、と私は申し上げます。・・・〔伝統的な思考が用いる〕この概念は、諦め、死、抑圧を、事物の避けようもない本質として請け合うのです。確かにこれらの契機はすべて本質的なものと大いに関係がありますが、しかし避けうるもの、批判されるべきものであって、いずれにしろ、その思想がそもそも自分と一致させなければならないものの対極にあります。(176)

つまり大切なのは、否定や差異(あるいは反復)といった概念を用いることによって、われわれの特異的な生を絶対的に肯定しようとする彼らのイロニーを理解することなのである、と私は思う。

*1:例えば、三島憲一氏はベンヤミンの影響を受けたと推測されるアドルノの思想を貫く観点を次のように表現している。「理性は実は野蛮と同質であるその本性を露呈することによって砕け散っているが、まさにその破片のゆえに「なおも生きる」希望があるということであり、その破片は野蛮とは無縁であるという憶測である。」(三島憲一、「理性と破片の痕跡をめぐって」、『現代思想』第15巻第13号所収、青土社、1987年、58ページ。)