転々と

BSで録画していた『転々』を見る。
ものすごく良い映画じゃないですか。中学生でも思いつくような馬鹿みたいな日本映画とってる暇があるなら、こういう映画にこそちゃんと資金を回すべきでしょう。

監督は『時効警察』や『熱海の捜査官』の三木聡。キャストは三浦友和オダギリジョーのダブル主演。また、『時効警察』のふせえり岩松了に加えて、『熱海の捜査官』の松重豊らによる掛け合いが見られます。さらに、『時効警察』の麻生久美子が三日月さん役で友情出演し、小泉今日子が勤めるスナックの名前が「時効」だったりと(と書きつつ、すべてウィキペディアに載っていたことに気づく)、ファンがくすくす笑えるものになっています(こう考えると、『熱海の捜査官』の北島さん役(栗山千明)も教頭役(藤谷文子)も、やはり麻生さんでは違うなぁと。やはり犯人はNPO代表と男子高校生の「2」人でしょうか。次回最終回ですね)

個人的には、数年前東京に行ったときに、何を思ったのかひとりで散策した、新宿アルタ裏の立ち飲み街から歌舞伎町を抜けて、「いかがわしい」ホテル街通って伊勢丹に出るというコースがそのまま出てきて、なんだか懐かしい気持ちになりました。

そして、とりわけ目をひいたのは吉高由里子の奇演。『間宮兄弟』の北川景子もそうですが、こういうちゃんと演技ができる女優さんを、単にカワイイといってもてはやすのではなく、見る側がちゃんと評価しなければなりません。もちろん、かつて蜷川氏小栗旬に対して「(馬鹿みたいなドラマに出てないで)自分が出るべき作品をしっかりと自分で選びなさい」と言ったように、彼ら自身の挙措も大切ですが。

内容に関しては、まぁ、あってないようなものなのでなんですが、これほどまでにジンジンと人の弱いところを揺さぶる映画も数少ないのではないでしょうか。
『転々』


あと思いつくとしたら『ゆれる』かなぁ。

マゾヒズム的共同体

ブックオフキャンペーン。

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

1400円☞750円☞300円

著者自身が述べているように、この著作はジェンダーセクシュアリティに関する諸説の解説や概説を目的としてはいない。むしろ田崎氏が(無論、理論的な意味で)構想している「マゾヒズム的な共同体」の可能性を描き出すことを目的としている。それは、他者に対する位置取りの差異や、器官的特徴による性差の分類によって規定されるのとは異なる仕方で自己を描き出すことであり(これを田崎氏はマゾヒスティックな主体と呼ぶ)、セクシュアリティの問題を本質主義とも構築主義とも異なる別種の水準で概念化することを必要とする。すなわち、暗黙的に他者との依存関係を担保しながら、受動性を能動性に転換しただけのサディスティックな主体性とは異なり、「自分自身を享受するのに他者に依存しなくてすむ」「受動でも能動でもない、中動としての「自己」」(94)を描き出さなければならない。したがって、著者は、キャサリン・マッキノンの本質主義を批判するジュディス・バトラー構築主義という構図を説明しつつ、これら両者ともに対して批判的立場を取ることになる。

そして田崎氏が依拠するのは、生物学の議論(動植物というより、細菌やウィルス)における性、セックスの概念である。性と生殖を結びつけてしまうのはわれわれ多細胞生物の偏見であると著者は言う。そもそも生物学的に言えば、セックスとは、DNAの交換による遺伝子組み換え技術のことであり、個体の増加に関わる生殖とは別の概念である。すなわちそれは、次世代に遺伝情報を伝達するのではなく、あくまで環境の変化などによってDNAによるタンパク質の合成が妨げられ、生物個体そのものが死ぬことを防ぐために、自分のDNAを自己複製したり修復する技術のことなのである。

つまり、性は、種の存続というよりも(そもそも細菌では「種」という概念が成り立つかどうかも怪しい)、むしろ、個体の存続という切実な要求に応えるものとして始まったのだ。......(中略)紫外線や活性酵素、あるいは、その他の化学物質やエネルギーなどに晒され、さらには分裂の際の突然変異などで、DNAは時間の経過とともにダメージを受ける。性はDNAのこの損傷に対する修復機構の延長として生まれた可能性が高いのである。(47)

そしてより重要なのは、別の個体のDNAのある部分をモデルにして自己のDNAの複製を行うためには、外部から取り込んだ他の細胞を自らの酵素によって分解しないこと、すなわちそれによって栄養摂取をしないことが必要となる。「外部を貪り喰わないこと、動物的生の停止がセックスの条件なのだ」(47)。ここに著者がマゾヒスティックな主体のあり方のひとつを見ているのは明らかであろう。
こうした社会的分類以前の生の様態、自己の自己に対する関係性の議論に、例えばアガンベンの「ゾーエ」やフーコーによる「自己のテクノロジー」の議論を重ねることで、著者はマゾヒズム的な主体のあり方を論述していく。


マゾヒズム的な主体、およびそれによって構成される(であろう)社会とは異なる共同体という考えは、著者がつねに参照するドゥルーズの「独身者」(『カフカーマイナー文学のために』)や徒党集団(『千のプラトー』)の議論に呼応している。しかし、このあらたな共同体の形成については、この著作において積極的に論じられることはない(この点に関してはドゥルーズも同様であると言わざるをえない)。著者は、受動的に形成されるマゾヒズム的な主体がいかに社会や国家に取り込まれるように「誘惑される」のかを論じるための「当て」として、精神分析レオ・ベルサーニ)とポスト・フォーディズム資本論パオロ・ヴィルノ)を挙げるに留まっている。

印象派の絵画はそんなに接近して見てもなんだかわかりません

京都市美術館にて開催されていたボストン美術館展に行く。日曜かつ最終日ということもあり、尋常ではない人の量。個人的な印象としては、数年前のルーブル展の三分のニ程度の込み具合とはいえ、じっくり鑑賞するのは難しい。ピカソには世界がこう見えているんだ、や、本物みたいにキレイ、などの雑音に辟易しながらも(ベラスケスかなにかの肖像画を前にして、「髪が短い」と言った子供のセンスは良い)、いくつかの作品には感銘を受けつつじっくりと見ることができた。特にオランダ絵画の光の描き方には考えさせられるものがあった。

(出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emanuel_de_Witte_005.jpg
印象派のように、見る側の統覚作用によって「見える」経験を再構成する*1のでもなく、かといって、陰影は経験的対象であるが、光は経験的対象ではないがゆえに、写実主義とも異なる。光を光として描くための技術。



鎌と微笑みと曇り空
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー、《鎌を持つ草刈り人》

*1:メルロ=ポンティが『眼と精神』(1970年、みずず書房)で述べているように、こうした経験を派生的なものとし、「奥行き」という「他の諸次元を包含するような次元」(286)を追及したセザンヌはここで言う印象派には含まれない。

自分のミーハーぶりを正当化してるだけですが、

いわゆるJ-POPと分類されるもので、比較的よく聞くものがある。それをあえて「歌謡曲」と呼んでいるのだが、そのうちのひとつである、RIP SLYMEの新譜のベストアルバムを最近聞いている。

ちなみに言っておくと、僕が「歌謡曲」と呼んでいるのは、何か新奇で突飛なことをするのではなく、商業ベースの範囲内で極限までその形式性と純度を高めることを目的として音楽活動を行っている人たちのことを指す。彼らは、形式性を破壊して大衆には理解できないことをするのが「芸術」だと勘違いしている「アーティスト」とは厳密に区別される。したがって「歌謡曲」には、芸術というものもまた、任意のジャンル内でいかに適切な技法と手法を用い、それらを極限まで磨き上げるのかの謂であるという自覚が備わっている必要がある。(なのでミスチルはあまりに確信犯的過ぎるし、木村カエラはまだ無意識にこれを行っているように思う)


さてリップスライムだが、彼らは非常にバランスが良い。かつてどこかで聞いた話によると、彼らは自分のパートのリリックは自分で創作するそうなのだが(そりゃそうか)、それぞれに各々の特性がよく出ている。リリックの内容を用いて形式に自己言及するPESのフォルマリズムと(例えば『黄昏サラウンド』の「話はこのバースの頭に戻る」や、『Tales』の「謳いだせば隣のイルも唄いだす」とか)、現実の悲惨さや残酷さを直接謳うSUさんのリアリズム(これも『Tales』の「毎日が 忘れてるよ いつの間にか 子宮から出て出会い 別れて 元気ですか? 想い想われて」)が両極となってぐんぐん前に進むのを、半音上下でメロディを「外す」ILMARIとつねに基本を外さないRYO-Zが丁度良い範囲に全体を抑える。これがとても気持ち良い。

SUさんの嫁が大塚愛ILMARIの嫁が蛯原友里というのもバランスが良い。


障害者か障がい者か

国語の授業をしていて「障害者」と黒板に書いたところ、ひとりの小学生に「今は「障がい者」が正しい表記だ」と指摘されて愕然となった。
もちろん「害」という字が与える印象の悪さによって不快感を被る人に対する配慮、それに対し、むしろ字を変えることそのものが問題を助長しているのだなどといろいろな論争があるようだ。おそらく前者の立場は、それこそ「害」という字を範列的に「災害」や「害虫」といった語と対照させているのだろう。しかし、障害者という語における「害」の字は、「害を与える」ではなく「そこなう」の意味であり、やはり障害者への配慮を云々する連中の方が、障害者自身の位置を貶め、蔑んでいるとしか考えられない。とりたてて人間に対して物理的な実害を与えるわけではないゴキブリなどに、その不快感から「害虫」と名ざすのと同じ発想に彼らは立っている。
そしてなにより僕が愕然としたのは、言葉の表記を変えることがあたかも社会の改善や進歩のしるしかのように子供たちに語る学校教員の似非啓蒙主義的な姿勢である。昨今「障害者」が「障がい者」へと表記変更される傾向があるのならば、そこに含まれる欺瞞的な市民意識や、一方的な価値観の押し付けに対して危惧を示すのが教師の仕事であり、上で述べたような、アホな連想ゲーム的発想が、社会のルールとして適用されるときに行使されている権力のありようこそを意識させるのが、子供に対する大人の倫理ではないか。アホらしい。

ドゥルーズとアドルノ。

否定弁証法講義

否定弁証法講義

今回、この『否定弁証法講義』を読んでいて、途中からドゥルーズの『差異と反復』の概説を読んでいるような錯覚に陥った。ドゥルーズアドルノ。思想的にきわめて近接的だと思うのだけれども、調べてみると、両者を類比的に論じた文章はほとんどない(英米系に少しあるとはいえ、どれも音楽や芸術関連ばかりだ)。日本では檜垣立哉氏が、アドルノの朋友であるベンヤミンと、ドゥルーズの思想的な連関性について正面から論じている、稀有な存在だ*1

ドゥルーズアドルノの類似性は、たとえば、同一性と排除の論理に従うハイデガー批判、ヘーゲルにおける現実と理念の弁証法モデルの批判的な受容といった、研究対象の類似性に起因するように思われる。アドルノは、思考それ自体が自発的に思考する権威をもつのではなく、むしろ「思想の構造は、その思想の圏内にある、歴史的に現に存在している思考の形態によって作り出される」(70)という。この論点は、ドゥルーズの「思考のイメージ」の議論そのものである(もちろん、このときの両者に共通の参照項は、マルクスイデオロギー論であるが)。

しかし、より重要なことは、ドゥルーズとともにアドルノもまた、ある種「経験論」の鋳直しを試みているということだろう。アドルノは、哲学は自らがあらかじめ設定した座標軸や立場から対象を捉えるのではなく、まずもって「対象の多様性」に対して哲学自身が身を委ねなければならないという。

哲学は自らの対象を鏡として用いて、そこにつねに自分自身を再認する、というのであってはなりません。・・・みなさん、一方で無限な対象を支配していると自惚れもせず、他方で自分自身を有限なものともしない、そのような哲学は、概念による反省という媒体における、何一つ割り引かれることのない、まったき経験にほかならない、と言えるでしょう。あるいは、それこそ精神的経験である、とおそらく呼ぶこともできるでしょう。私がここで経験概念を用いることで注意したいのは、私が遂行している方向転換、ないしは私がいくらかなりと寄与したいと考え、みなさんに説得力のあるものとして示したいと思っている方向転換が、いくらか込み入った弁証法的な仕方で、経験論の救済もまた意図している、ということです。すなわち、ここでつねに原則として重要なのは、実際、下から上への認識であって、上から下への認識ではありません。肝心なのは自分自身を対象に委ねることであって、演繹ではないのです。ただし、経験論のさまざまな潮流がそなえているのとは、まったく別の性格、まったく別の認識目標がそこには伴われています。(141)

否定弁証法という概念装置によってアドルノが示すのが、こうした精神的経験と呼ばれる方向性であり、差異と反復(理念と強度、潜在性と現実化)によってドゥルーズが示すのが超越論的経験論という方向性である。そして、彼らの思想を下支えしているのは、肯定性というものに対する絶対的な信頼であろう。アドルノはおそらくはハイデガーを念頭に置きながら次のように言う。

私がみなさんに説明しようと試みている立場を何より明確に示すものは、私の立場は悲劇の概念を決して認めないこと、すなわち、存在しているいっさいはその有限性のゆえに没落にも値するのであって、この没落が同時にその無限性の保証であるといった考えを決して認めない、ということだと思います。伝統的な思考のなかで、これほど私の考えと対立するものはおそらくない、と私は申し上げます。・・・〔伝統的な思考が用いる〕この概念は、諦め、死、抑圧を、事物の避けようもない本質として請け合うのです。確かにこれらの契機はすべて本質的なものと大いに関係がありますが、しかし避けうるもの、批判されるべきものであって、いずれにしろ、その思想がそもそも自分と一致させなければならないものの対極にあります。(176)

つまり大切なのは、否定や差異(あるいは反復)といった概念を用いることによって、われわれの特異的な生を絶対的に肯定しようとする彼らのイロニーを理解することなのである、と私は思う。

*1:例えば、三島憲一氏はベンヤミンの影響を受けたと推測されるアドルノの思想を貫く観点を次のように表現している。「理性は実は野蛮と同質であるその本性を露呈することによって砕け散っているが、まさにその破片のゆえに「なおも生きる」希望があるということであり、その破片は野蛮とは無縁であるという憶測である。」(三島憲一、「理性と破片の痕跡をめぐって」、『現代思想』第15巻第13号所収、青土社、1987年、58ページ。)