全体主義 (平凡社新書)

全体主義 (平凡社新書)

全体主義とは、教科書的に言えば、「生命主義、権力主義、民族主義、ローマ精神、恐れを知らない大胆な男らしさ、技術主義、戦士共同体、暴力と征服、帝国主義的拡大政策といった、文化的に多種多様な神話や価値観を融合させるために、ファシズム体制が用いたイデオロギー」(35)のことである。
アドルノの言を俟つまでもなく、近代の合理的理性の帰結がアウシュヴィッツ絶滅収容所であったことを自覚することなく、われわれの実存や生命を無条件に、楽観的に肯定するような言説に組することは無意味であり欺瞞である。というよりいささかゾッとする。ハイデガー国粋主義的な論脈から頭ごなしに否定するのではなく、そういった歴史的事実性を請け負った上で、それでもなお彼の思想を肯定的に捕らえるような視点を提示することが大切だということだ(アドルノベンヤミンの仕事の一端はそうした反省の上に築かれている)。
本書は、全体主義という概念が、自由主義共産主義といった時代ごとに異なる概念間において形成される布置のなかで、いかなる意味を持っていたのかを分析し明確にする系譜学である。たとえば、「鉄道や化学工場を建築するために、何百万もの人間を強制的に移住させ奴隷化して用いた」スターリニズムと、「人間を殺すために鉄道や化学製品を用いた」ナチズムを比較してみれば、それらを「全体主義」としてひと括りにすることがいかに横暴であるかが理解される(同じように、全体主義国家とファシズムを区別し、さらにファシズムの分類を行うことで、ある種のファシズムに政治な共同性を形成する肯定的な力を見出そうと試みたのが『千のプラトー』である)。

増田靖彦「思考と哲学―ドゥルーズハイデガーにおける」(『ドゥルーズガタリの現在』所収、平凡社、2008年、pp.513-536。)
※〔 〕は執筆者自身による挿入。


ドゥルーズの『差異と反復』が、「時代の雰囲気」であったハイデガーによる差異の哲学にその多くを負っていることは疑いえない。しかし、両者の相違点は、彼らのニーチェ解釈において、とりわけ力への意志をめぐる解釈の相違において明瞭となる。

ハイデガーによれば、力への意志とは、力が自己を超出し、自己をいっそう高みに引き上げ、そうした自己の高みにおいて、自己を自己自身のうちに保持することである。・・・これが力への意志にほかならない。(521)

これは「脱自的な自己固有化の運動」としての現存在の議論とパラレルである。ハイデガーにとっての問題は、存在と存在者のあいだの存在論的差異がいかにして「本来的な」自己固有化という「同一的な」運動を生み出すのかということであった。したがって、ハイデガーにとって力への意志と力量は、「本質的に同じものに帰着すると言って良い」(522)。


これに対しドゥルーズは、ニーチェ力への意志(puissance)と力量(force)を概念的に区別していることに着目する。ドゥルーズによれば、

力量の本質は他の諸力量との量的差異であり、この差異は〔反動的と能動的という〕力量の質として表現され、しかもそのいずれもが力への意志から生じてくるというのだ。(519)

すなわち、「力への意志は、諸力量の差異的かつ発生的なひとつのエレメントである。つまり、「根源的な差異である力への意志が、それ自体における差異として、力量の量的差異を関係させる」とドゥルーズは考える。すなわち、「力量と力への意志は徹底的に異質なものであり、いわば二重に差異化していく〔前者における能動と受動という異なる質の差異化を生産する〕運動なのだ」(522)。

さらにハイデガーは、「自己固有化の運動が駆動される契機そのものを解明する」という生成の創造そのものに関わる問題を「あまり顧慮しなかった」(523)。このため、ハイデガーにおける存在が極めて平準化された構造〔固定的で、あえていえば超越的な構造〕しかあてがわれていないように思われるというのが増田氏の判断だ。

これとは対照的に、ドゥルーズはいかにして力量の質(存在者)を力への意志(絶えざる差異の生成である、差異そのものとしての存在)が発生させるのかを問題とする。ハイデガードゥルーズの根本的な相違はここにある。すなわち、

両者の違いは、存在に発生―――あるいは根源における差異との絡みから、異質発生と形容したほうが適切かもしれない―――、さらには生成としてのプロセスをみるのか、それともアレーテイアとしての真理をみるのか、という思考の態度に集約されるだろう。(532)

この意味で彼らは「もはや真っ向から対立する様相を呈するようにさえ思われてくる」(522)。増田氏はこの論点から、ドゥルーズ潜在的なものと現働的なものとの組み合わせを、ハイデガーの存在と存在者の組み合わせに見立てるバディウの見解に不同意を表明している。


                          

増田氏は、ハイデガードゥルーズとの違いを、存在と存在者のあいだの発生の議論の有無にみている。しかし、『意味の論理学』の動的発生の議論を含めて考えれば、それにとどまらず、存在から存在者の発生の議論(つまり個体化の議論)そのものが、個体の発生のエレメントである一義的な存在(『差異と反復』の表現で言えば、強度やréel)を発生させるという論点が『差異と反復』にも含まれていたのではないだろうか。個体化の議論はあくまで、潜在的なもの(virtuel)と現実的なもの(actuel)の組み合わせによって構成されているとはいえ、『差異と反復』全体のシステムとしては、そこに実在的なもの(réel)が挿入された三つ組の構造となっている。(これが『スピノザと表現の問題』において提示された、実体と様態と属性(の一義性)の議論に対応しているのを見るのはたやすいだろう)

「ヴァン・サン・カント」ではなく、ガス・ヴァン・サントでした。

フランス語の聞き取り練習のためと、たまたまBSで見かけた"Paris,je t'aime"(2006)を見る。パリ20区のうち18区をそれぞれ舞台とした、複数の監督による短編フィルムのオムニバス映画であるが、端的にどれもが面白かった。短編小説と同じで、短編映画においては、見る側をいかにして瞬時に引き込むか、そのテクニックが話の筋よりも重要となると思う。この意味では、よく考え込まれ洗練された作品ばかりで、見ているこっちはすっかり引き込まれ、騙される。とりわけ、Alfonso Cuarónというメキシコ人映画監督による「モンソー公園」は明示的に、見る側の推測(先入見)をしっかりと組み込んだ作品構成を行っている。

Parc Monceau (Paris Je T'Aime, 2006) °Alfonso Cuarón from Francesco on Vimeo.


これも珠玉の「Faubourg Saint-Denis」に出てくるナタリー・ポートマンも相当良いですが、こちらの女優さんも負けてません。

レイラ・ベクティ、アラブ系のフランスの女優さんだそうです。

血が泣いてる。

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

友だちに強く勧められて読んでいる。

一見すると黒人と白人の対比がモチーフなだけに、単純なように思えるが、構成、描写はさすがともに緻密。父親が黒人でありながらも白人として育てられ、敬虔なクリスチャンである養父に虐待されつつ青年期を過ごすクリスマスという男。彼は自身のなかに流れる黒い血を嫌悪するとともに、あらゆる黒人に対して暴力的に振舞う。それに対し、黒人擁護に加担して殺害された祖父と兄をもち、いまなお黒人解放の仕事に従事する白人の女性ミス・バーデン。この二人が狂気的でありながら、なおかつ静謐な関係を取り結ぶ(取り結びえない)場面がとても印象的だ。

小説全編を通して流れているのは、呪いとしての黒い血、その匂いである。谷で殺した羊のなかに両手を入れたときの温かな血、大量に飲み込んだ練歯磨に逆流する吐瀉物、藪陰に潜んで男を待つ欲情した中年女の裸体。これらの匂いが夏の湿った空気とともに下から立ち上る。それでいて美しい小説。


湿気を含んだJRの陸橋を渡るとき、生ぬるく湿った空気とともに立ち上る精液のような匂いで思い出されるのは、僕の場合、小学生のときのプールサイドであり、そのときのじりじりと照り返すコンクリートの熱と、体育座りする自分の足の甲を流れる水滴だ。


むだい

研究発表が、まぁとにかく終わり、それほど余裕があるわけでもないとはいえ、ホクホクと本を読む。

現在の現象学研究者は奇妙に思うかもしれないが、『意味の論理学』においてドゥルーズは、フッサールの『デカルト省察』第5省察の超越論的主観性の複数性の問題を執拗に検討している。(ちなみにドゥルーズの関心は、世界の一性(存在の一義性)がいかにして様相の複数性によって構成されうるのかということにある。)この著作は、この問題をコンテクストとして、後期フッサールの「原自我」の問題系を浮かび上がらせようと試みる。

「翻訳と理解」

 同僚のM氏が主導となり「翻訳論研究会」を立ち上げた。M氏の関心が、翻訳という行為における創造性、すなわち、ある言語から別の言語への変換において、共有されている(とされる)意味とは異なる何か(それはあらたな意味や情動、あるいはなんらかの行為かもしれない)が創造されるという事態に向けられているのに対し、僕の関心は、翻訳という行為そのものがいかにして可能となっているのか、その根本的な機構を明らかにすることにある。自分の問題意識を整理するために考えながら少し書いてみる。

 まず、根源的な問いとして「翻訳とはなにか」というものがあるだろう。古くは聖書解釈にはじまり、他言語の理解、文学作品の翻訳、もちろん音楽作品や芸術作品における変奏や模写も広義の翻訳であると考えることができる。すなわち、翻訳とはきわめて広い領域にまたがる人間の行為のひとつである。それゆえ、それぞれの水準、領域に固有の手段や規則があり、そもそも翻訳一般について定義することはきわめて困難である。
 しかし、いずれの水準においても、翻訳する者とその対象が必ず存在しなければならないということが必要条件として考えられるだろう。すなわち、翻訳という行為はある種の他者(非常に広い意味で。自分とは異なるすべてのものとしての他者)理解であると考えられる。たとえば、ある言語を別の言語に翻訳するということは、その対象がどのような文脈におかれており、それがどのようなことを表現しようとしているのかということを、翻訳する者がどのように理解しているのかを提示する行為である*1。ここには、対象を理解する主体と、その対象と主体との関係を理解する主体という二重構造がある。この二重構造は単に対象を理解する場面に留まらず、自分の発話を同時に自分が聞くという主体の二重性*2にそのまま適用することができる。そして、この二重構造が翻訳における創造性の発生を可能にする最小限の条件であると思われる。いずれにせよ、このように翻訳とは、単に翻訳する者と対象との関係だけではなく、主体の形成にも関連しており、翻訳という行為が、その外延のみならず、その内包においてもまた複数の要素から構成されていることがわかるだろう。

 とにかく、繰り返すと、翻訳とは広義の他者理解である。しかし、ここで確認しておくべきことは、翻訳と理解というのは、決定的に異なる水準に属する行為であるということだ。相手(対象)を理解するということは、徹底的に個人的な行為である。すなわち、私の他者理解と、同じ対象に対して行われた別の人の理解とを比較し、いずれか一方を正しいか、誤っているかを決定的に判断することは決してできない。個人の理解という水準に留まっているかぎり、それを決定する判断基準がないのだ。この意味で、ある理解と別の理解のあいだには絶対的な比較不可能性があり、理解とはつねに相対的なものとなる(いうまでもなく、理解する当事者のパースペクティヴを取れば、その理解はつねに絶対的なものとなるだろう)。
 しかし、この理解を、なんらかの媒体(言語、音、身振り、表情など)によって表現することができる。こうした理解から表現までの一連のシークエンスを待ってはじめて翻訳という行為が成立する。逆にいえば、翻訳においてはつねに、自らの理解を表現として提示することが不可欠となる。そしてこの表現の水準においてはじめて、その理解の客観的妥当性の判断が可能となる(厳密にいうと、客観的妥当性の判断が可能となる水準が開かれる)。翻訳とは、こうした絶対的に個人的な理解と、任意の媒体によるその表現という客観的な妥当性が判定可能となるような、異なる二つの水準から構成されていると考えられるのだ。(つづく)

*1:この意味で翻訳とはつねに解釈であるのは明らかであるが、ここでは論じることができない。

*2:ちなみに、発話と聴取の二重性が言語行為において根本的な役割を果たしている。

Luke Caldwell, "Schizophrenizing Lacan,[Guattari], and Anti-Oedipus," intersections10, no.3,2009, pp.18-27.
精神分析ドゥルーズの関係は、ひとつの大きなトピックである。とりわけ、フランスの精神分析家ジャック・ラカンドゥルーズに対して与えた影響がどの程度のものであったのかについての判断は、研究者においても意見の分かれるところだ。

しかしながら、『差異と反復』や『意味の論理学』に代表される初期ドゥルーズにおけるラカン精神分析の位置づけはきわめて肯定的であり、その理論構成におけるひとつの参照項として機能していたのに対し、ガタリとの共同作業による『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』では明確に精神分析に対して批判的立場が取られるというのが一般的な見解であろう。ドゥルーズにおけるこの転回を、ジジェックは否定的にとらえ、まさに『アンチ・オイディプス』は「ほぼ間違いなく、ドゥルーズの最低の本である」と述べている(とはいえ、ジジェックの批判のロジックを再検討してみる必要は十分にある)。

Caldwellによるこの論文は、2004年にCriticism誌上で展開されたドゥルーズラカンの関係に関する論争に対してひとつの問いを投げかける。すなわち、ドゥルーズガタリの共著である『アンチ・オイディプス』は、はたして実際にラカンを拒絶するものといいうるのだろうか。むしろ、精神分析に対する論争的な攻撃の裏で、ラカンの議論は依然として機能し続けているのではないかというのがCaldwellの判断だ*1

簡略に論文の概要を紹介する。
『アンチ・オイディプス』の基本的な考えは、無意識的な欲望の精神分析的な構築、主観性が形成される際の象徴的、文化的なものの役割、エディプスコンプレックス、これらを否定し、変形させることである。ラカンが主観性の構造的な欠如を論じるために提示した「対象a」や、「欲望は他者の欲望である」という言明を、ドゥルーズガタリ存在論的原理として読み替え、象徴界想像界といった理念的区別を排除する。彼らにとっては、「あらゆるものが現実界であり、あらゆるものが機械である」(23)。欲望は他の欲望を無際限に生産し続け、それによって現実そのものを生産する。しかし、言うまでもなく、こうした欲望的生産過程は、さまざまな歴史的、社会的強制(国家、君主、家父長制など)によって不可避的に固定される*2。そして、ドゥルーズガタリが提示する「分裂分析(schizoanalysis)」は、こうした「社会的強制から欲望―生産の過程を開放することを目的としている」(25)。『アンチ・オイディプス』はこの分裂分析によって、資本主義がいかに欲望的生産の過程を自らのうちに取り込み、それによって自らを展開し、自身の存立性を保っているのかを明らかにしようという試みだ。こうした観点からすると、ラカンの議論は単に拒絶されているわけではなく、そこに分裂症という論点が組み込まれることで、それをその極限にまで押し進めているのではないだろうかとCaldwellは主張する。
彼が行っているように、精神分析の位置づけを適切に把握することが、『アンチ・オイディプス』の内実を理解するための(それだけで十分だとは言えないが)不可欠な作業のひとつであることは言うまでもない。

*1:ちなみに彼によると、『アンチ・オイディプス』の出版の数ヶ月後、ラカンドゥルーズを呼び出し、「君の議論はほとんど役に立たない。しかし、私が必要としているのは君みたいな人物だ。」というなんとも言いがたいコメントを述べ、さらにある人には、『アンチ・オイディプス』は自身のセミネールを基盤としており、セミネールにおいてはすでに「欲望する機械」という考えが含まれていた、とこぼしていたという。

*2:この辺の議論は、欲望があるから抑圧されるのか、抑圧されるから欲望があるのかという複雑な議論を含んでおり、これもまた精神分析フロイト)とドゥルーズの論争点のひとつとなる。