フッサール『厳密な学としての哲学』

厳密な学としての哲学とは?
「そもそものはじまりから哲学は、厳密な学、それも最高の理論的欲求を満足させ、かつ倫理的−宗教的な方面に関しては、純粋な理性的規範によって規制された生活を可能にする学であることを要求してきた。」
「しかし哲学は、その発展のいかなる時期においても、厳密な学であろうとするこの要求を満たすことができなかった。」
近代哲学の唯一の成果は、厳密な自然科学と精神科学、あらたな純粋数学的学科を基礎付け独立させるということだけであった。しかし、それらとは区別される限りでの哲学そのものは、厳密な学という性格を欠いたままにとどまっている。


哲学は客観的に妥当する仕方で何も教えることができない。哲学を学ぶことはできない、ただ哲学することを学びうるにすぎない(カント)
←「哲学を学ぶことができないのは、哲学にはこのような〔創造的精神によって獲得された理性的洞察を、その根拠と帰結に即して、内的に再創造することができるような〕客観的に把握され基礎付けられた洞察がないからである。」

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「哲学の進歩にとって決定的な「転回」とは、過去の哲学の学であるという主張が、その学的であると自任していた方法的操作が批判されることによって崩壊し、そして今度は厳密な学という意味での哲学を根底から新たに形成しようとするじゅうぶんに自覚された意志が、研究の秩序を規定する支配的な意志となるような転回をいうのである。」
→この学としての哲学のためには、「従来の哲学によって素朴に見過ごされ、あるいは誤解されてきた厳密な学の諸条件を、体系的な吟味を通して決定的に明確にし、そのうえで哲学の理論体系を新たに構築しようと試みるべきである。」


以下に展開されている所論を支えている思想とは次のようなものである。
「すなわちその思想とは、人間文化の最高の関心は厳密に学的な哲学の形成を要求しており、したがってわれわれの時代において哲学の転回が当然行われるべきであるならば、この転回はいかなるばあいにも、厳密な学という意味での哲学を新たに基礎付けようとする志向によって生気づけられていなければならない、という思想である。」


自然主義は、哲学を厳密な学として改造するという理念を追求している。「しかし原理的に考えるならば、これらのこと〔自然主義は厳密な学としての哲学をもうすでに実現してしまっていると考えること〕はすべて、理論的に根本からまちがった形式において行われているのであり、そしてこのことはとりもなおさず、実践的にわれわれの文化に対する、日増しに増大する危険を意味するのである。それゆえに自然主義哲学を根本から批判することこそ、今日われわれがなさねばならない急務なのである。」「そしてこのばあいとくに必要とされるのは、単にその帰結からそれに反駁するという批判ではなく、基礎と方法とにかかわる積極的な批判である…この論文の第一部の所論は、自然主義的哲学を積極的に批判することに向けられている。」(第二部は、歴史主義の影響によって単なる世界観哲学に堕ちていくように思われる反自然主義的哲学と、学的な哲学の相違点を究明し、それぞれの妥当性を吟味することに向けられる)。



自然主義哲学
自然主義とは、自然、すなわち精密な自然法則に従う、空間時間的な存在の統一という意味での自然の発見の結果、現れてきたものである。」
自然主義者は自然、それもさしあたり物的自然以外の何ものも認めない。存在するものはすべて、それ自身物的なもの、つまり物的自然の統一的な連関に属しているものであるか、あるいは心的なものではあっても、単に物的なものに依存して変化するもの、せいぜい第二義的な「並行的随伴事実」にすぎぬものである。存在するものはすべて心的物的な自然であり、確固とした法則性に従って一義的に規定されている。」
唯物論からエネルギー論に至るまで、「極端で徹底した自然主義を特色づけているものは、一方では意識――いっさいの指向的―内在的な意識所与を含めて――の自然化であり、他方では理念、したがってあらゆる絶対的な理想と規範の自然化である。」

・・・自然主義は理性を自然化することによって背理に陥っている。
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つまり、「自然主義者は、総じて真正の真理、真正の美、真正の善とは何であるか、いかにしてそれはその普遍的な本質に即して規定されうるのか、どのような方法によってそれは個々のばあいに獲得されうるのかという問題」の認識は、「その主要な点においては自然科学および自然科学的哲学によって達成されていると信じている。」
自然主義者は「自然科学的に」真なるもの、善なるもの、美なるものを熱狂的に擁護するのである。
「しかし、このような態度をとる自然主義は、実は理想主義者なのである。」自然主義者は、まさに「自然科学的な」理論を立てるばあい、「まさにその理想主義的な態度において前提としていた当のものを否定するような理論を打ちたて、これを基礎づけたと思い込んでいるのである。」=背理

このように自然主義をその帰結から批判しても何も資するところはない。しかし、「われわれが自然主義の基礎、方法、作業について必要で積極的な、しかもつねに原理的な批判を加えるばあいには、事情はまったく異なってくる。したがって、これまで論難してきた哲学の性格、つまり「意識の自然化をさらに詳細に検討してみようと思う。」

探究の対象は・・・哲学的な思索をする自然研究者による通俗的省察ではなく、「現実に学的な武装をこらして現れている専門的な哲学…それによって哲学が精密な学問の地位に決定的に達したと信じている方法と学科に関してである。」「この哲学はみずからが精密な学問の地位に達したと確信し、ほかのすべての哲学的思索を侮蔑の目で見くだしている。(!)


厳密な力学に類比されるような精密な哲学を求めるならば、「われわれは精神物理学、とくに実験心理学をあげることができるだろう」。一般の信ずるところでは「論理学、認識論、美学、倫理学および教育学は、結局、実験心理学によってその学的基礎を得たとされている。」「同様に形而上学の基礎であるとさえいわれている。」
←これにたいする反論
心理学は事実科学なのだから、「それはいっさいのものの規準を決定する純粋原理を取り扱う哲学的諸学科、すなわち純粋論理学、純粋価値論および純粋実践論に基礎をあたえるにはなんとしても不適当」である。
「自然科学が探求しようとする自然は、自然科学にとって単純にそこに存在している。事物が存在しているということ、すなわち無限の空間のうちに静止し、運動し、変化するものとして、また無限の時間のうちに時間的なものとして存在している、ということは自明のことなのである。」
心理学も同様。あらゆる心理的判断は、それがはっきりというにしてもいわないにしても、その中に物的自然の存在定立を含んでいる。
→したがって、「物理的自然学はどのような特殊な意味においても哲学ではありえないし、また決して哲学の基礎として役立つものでもない」。



「意識としての経験がいかにして対象を与えたり対象に出会ったりすることができるのか。またいかにして経験が、…相互にその権利を保証しあったり誤りを正しあったりすることができるのか。いかにして経験論理的な意識のはたらきが、客観的に妥当するもの、つまりそれ自体において存在している事物に妥当するものをいいあらわすことができるのか。なぜいわば意識のはたらきの規則が事物にとって無関係でないのか。」
=これらの問題に答えようとする学科が、認識論である。しかし、認識論はこれまでのところ、学的に明確に、決定的なしかたでこれらに答えることができていない。

自然科学的、あるいは心理学的認識論の背理を洞察し、解決することは、「その前提と結果からみて、明らかに自然科学を原理的に超えている。」その解決のいっさいを自然科学自身に期待したりすることは背理的な循環に陥ることになる。
→「すなわち自然を科学的に設定することも、それを科学以前の立場で設定することも、何ぴとにも異議のないような意味を保持せねばならない認識論においては、原理的に排除されねばならない。したがってまた、空間、時間、因果性などによって規定された事物的なものの存在を措定的に定立することを含むいっさいの言表も排除されねばならない。」=(現象学的還元)

認識論が意識と存在との関係の諸問題を探求するならば、「それは単に存在を意識の相関項としてのみ、つまりそれぞれの意識に応じて「思念されたもの」としてのみ、眼前にもちうるにすぎない。」「したがって、研究は意識の本質を学的に認識することに向けられなければならない、ということが明らかになるであろう。すなわち、その相互に区別されうる、あらゆる形態そのものにおいて、意識がその本質上何で「ある」のか、同時に意識が「意味する」ものは何であるのか、ということに研究が向けられなければならない。」

「対象が存在するということ、そしてそれが存在するものとして、しかもこのように存在するものとして認識において証示されるということが何を意味するのかは、ほかならぬ意識そのものから明証的に、したがってあますところなく、理解しうるものとなるであろう。そしてこのためには意識全体の研究が必要である。というのは、意識は、そのあらゆる形態に即応して、認識機能としてはたらきうるからである。」
「ところで意識はすべて、「何ものかについての意識」である以上、意識の本質研究は、意識の意味および意識の対象そのものの本質研究をもそのうちに含むものである。」なんらかの対象を普遍的な本質において研究することは、その所与のしかたを追及すること。「この「解明」そのものの過程においてその本質内容を汲みとることである。」
=このような研究をすべて現象学的研究という名称のもとに包括するのである。